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谷川清次郎商店「衝立看板」

紫煙の向こうに香る、暮らしのなかの「粋」。
きせる文化を見守り続ける衝立看板。

江戸時代から使われていた衝立看板には「唐木揉貫羅宇」の文字。いまでは年に一度、正月に飾られている。条の商店街から御幸町通りを南へ。高辻通りに出る手前、いまは京都市学校歴史博物館となっている旧開智小学校の前にあるのが「谷川清次郎商店」。古い町家の表造りの軒下、黒地に「きせる」のかたちを白く染め抜いた暖簾が通る人の目をひく。「きせるのみを扱う専門店は日本でうちだけになってしまったようで、寂しい限りです」と話してくれたのは店主の谷川清三さん。全国の愛好家はもちろん、国内外の研究者のほか、時代考証や小道具の相談に訪れる映画関係者も多い。

業は古く元禄(1688~1703年)後期というから、店を構えて300年以上。当主は代々中村屋清次郎を名乗り、清三さんは九代目に当たる。日本にたばこが伝わったのはそれより100年ほど遡る16世紀中~後半。キリスト教や鉄砲と同じ南蛮貿易の輸入品として人々に広まった。当初、たばこを吸うにはヨーロッパのパイプや東南アジアの喫煙具を模倣したものが使われており、カンボジア語で「管」を意味する「クシェル」が変化して「きせる(煙管または喜世留)」となったという。きせるの多くは火皿(たばこを詰めて火をつける部分)のある「雁首」と「吸い口」の部分を金属製にし、その間の管を「羅宇(らう)竹」と呼ばれる細い竹で作る。羅宇はいわばフィルターのような役割を果たすもので、ラオスで採れる黒班竹が材料に適していたことにその名が由来するともいわれる。当時、きせる作りは完全な分業制で同店は三代前までこの羅宇のみを取り扱う専門店だった。

の歴史をいまに伝えるのが写真の衝立看板。中央には大きく「唐木揉貫羅宇(からきくりぬきらう)」と刻まれ、屋号である「中村」の銘も見える。商工業が栄えた元禄のころ、その中心地であった京の店先には金や銀、蒔絵を使った看板がこぞって掲げられた。年々華美になるようすを危惧した幕府は1682年、ついに触れを出して禁じ、以降、同店に残る看板のように鉄や銅で補強されたものへ移っていった。写真のような衝立看板は当時の図会などでも見ることができる。

家の看板が用途第一になっていったのとは反対に、人々の懐のなかで日用品を越えた装飾品として芸術的要素を高めていったのがきせる。雁首や吸い口に細工を施したものや金無垢、銀無垢のきせる、また羅宇に昆布を巻いて燻り、磨いて鼈甲のような模様を出した手間暇かけたものまで作られた。日本は刃物が発達していたことから、他国にない「刻みたばこ」が愛好されたことも影響が大きい。髪の毛ほど細く刻んだ煙草は香りは高く、火皿が小さくてすむため、きせるの形も細く、スマートに洗練されていった。道具一式を入れておく「たばこ盆」だけでなく、きせるを携帯する「たばこ入れ」はさらに個性的なものが作られるようになり、きせるを入れる「叺」や留具の「根付」「袋」などは多種多様を極めた。「いくら意匠を凝らしても、刀なら武士だけ、茶碗なら家の中だけですが、きせるなら貴族から庶民までが皆使う。社交の場でさりげなく自己表現する大人の道具の一つだったんです」と、清三さんがその背景を教えてくれた。

桐木地竹手付きの「たばこ盆」。煙が叫ばれるようになって久しいが、「手軽な紙巻きたばこ(シガレット)を吸うのは単なる“習慣”ですが、きせるは“たしなみ”と“遊び”の世界」と清三さん。現在では講演や若者向けの催しにも参加し、きせる文化を広めている。「火を入れるとわかりますが、シガレットのように“煙い”のではなく、香のように薫り高い。日本人はきせるを通して、たばこの香りが作り出す時間と周辺文化を味わってきたんですよ」―。異国からもたらされて400年。時を経てこの国の人々が磨き挙げてきた暮らしのなかの“粋”をいまも守り続ける。

きせる専門店 煙管竹商 谷川清次郎商店
京都市下京区御幸町通高辻上ル橘町443
TEL.075-351-5762