
曲線を描いて切り出された8枚の薄板と、その両端を差し込んで止める上下のコマ。薄板の側面には1センチ程度の幅ごとに突起が作られており、突起に竹ひごを掛けながら留めていくことで、提灯の「骨組」が出来上がる。この上に和紙を張り、色を塗り、文字を書き上げれば昔ながらの提灯の完成だ。
写真の木型は、柳馬場通綾小路南の「
橋提燈株式会社」で保管されていた100年以上も前のもの。左の木型には「明治37年8月吉日」と書かれており、これが製造日と考えられる。側面の突起は摩耗のためか凹凸が擦り減るように無くなっており、使いこまれてきたことがわかる。「一つの木型で日に何十個と提灯を作るため、型はよく保って20年前後が寿命。しかも注文に応じて型の種類や数はどんどん増えていくので、ふつうなら火にくべたりして処分してしまうことも多いんです。よく残っていたと思います」と、13代目当主で代表取締役の
橋康二さんは話してくれた。
創業は遡ること約280年前の享保15年(1730年)。初代・近江屋佐兵衛が五条通高倉西に店を構えた当時は扇子問屋を営んでいたが、やがて提灯の製造販売を手掛けるようになったという。提灯といえば手に提げて灯す折りたたみ式の照明具。持ち歩いても火が消えないように工夫されたものだ。ろうそくの普及とともに江戸時代に広まったといわれ、近江屋も扇子という同じ竹製品を扱っていたことから普及の兆しをうけて商売を移ったと考えらえる。元治元年(1864年)の蛤御門の変の戦火で店舗が焼失したため、現在の地へ移転。宮内庁京都御所の御用達としても幅広い提灯を手掛けてきた。
社寺仏閣から町内のお地蔵さんの祠、店先の提灯看板、夏の床の照明や祇園祭の駒形提灯など、京都はいまも提灯の明かりが暮らしのなかに根付いたまち。そのため地元の受注も多いが、同社には全国各地からも注文が寄せられている。なかでも驚いたのは、かの有名な浅草の雷門の大提灯を手掛けていること。昭和46年に松下電器産業の依頼がきっかけで制作して以来、約10年ごとの新調に携わってきたという。職人のまちでもある浅草から、なぜ京都に注文が来るのか疑問に思って尋ねると、「個人の職人さんならどの地域にもまだまだたくさんいらっしゃいますが、大がかりなものにチームを組んで当たれる“職人集団”は少なくなった。そのことが挙げられるかもしれませんね」という答えが返ってきた。
近年では「大提灯祭り」として全国に知られる愛知県一色町・諏訪神社の大提灯復元の依頼も寄せられた。現地に3~4階建てほどもある巨大な作業工房を設置しての大事業だったが、作業にあたっては昔の職人の技術の高さに驚かされたという。「モノに触れてみなければ職人の腕は上がりませんし、腕を上げるためには仕事が要る。そういう意味では代え難い経験をさせてもらいました」と
橋さん。また、それは通常の商品づくりでも同じことだという。「提灯が人の暮らしから遠ざかってしまえば仕事はなくなり、若い職人を育てることもできなくなってやがて技術は消えてしまいます。伝統産業とか京都ブランドと言われてそこにあぐらをかいているだけではだめ。提灯はやはり実用品です。より多く使っていただいてこそのものですから、当社ではいまも新しい和の灯りとしての提灯の提案や、お祭り提灯などさまざまな用途の提灯の注文を、1個から大切に作り続けているんですよ」。
伝統を守るだけでなく、遠く先を見据える姿勢と気概が、数百年の技術と暖簾を守ってきたといえるだろう。